マンケル概説

笑ふ男と少女の記憶の森深し


 ヘニング・マンケルは傑出のストーリー・テラーである。正月休みからずっと、マンケルのクルト・ヴァランダーシリーズを一気読みした。そして、長年海外ミステリを耽溺した私は「白い雌ライオン」と「笑う男」に舌を巻いたのである。
 主人公のクルト・ヴァランダーは中年の警察官。結婚経験はあるが妻に離婚され、自殺未遂暦のある思春期で不安定な娘もいる。離婚した警官というとありがちな設定のようでもあるが、ヴァランダーは一匹狼のヒーローではないし、私生活の不完全さを特異な有能さでバランスを取っているキャラクターでもない。職場の同僚を信頼しつつ組織の中で職務を全うしようとする、世の中どこにでもいる仕事人の一人なのである。そして、その仕事ぶりは決して格好良くはない。判断ミスもするし、酒で失敗するなど自己管理的に弱い部分もある。上部機関のお偉方が来る会議に寝坊して遅刻したり、酔った勢いで女性検事にセクハラまがいの行為をしたり、不機嫌の勢いで部下に大人げない言動をしてしまってから自己嫌悪に陥ったりする。まあ、日本の推理ドラマならまず採用されない設定だ。だが、その不完全なヴァランダーが苦悩しつつも捜査に没頭する様を読むと、人は自分が望むように生きられず、自分が理想とする自分とはかけ離れていても、孤独に仕事をしていくしかないのだということを教えられ、力づけられるのだ。「笑う男」のあとがきには世界中の中年男に読ませたいとあるが、中年男のみならず、孤独な仕事人全てに力を与える作品だと思う。
 マンケルの小説の素晴らしさは、そんな味のある男を主人公にしたというだけではない。圧倒的なストーリー・テリングの巧みさに、読者は酔わされて振り回される一方なのである。マンケルのミステリには早くから犯人側からの記述も登場し、トリックや謎解きが面白さのがポイントというわけではない。むしろ、犯人側とヴァランダーら捜査側との魂のぶつかり合いが読みどころである。題材も社会的で、現代社会の暗部をえぐるような、正視に耐えないものも取り上げられる。では社会派にありがちな資料読み上げ的展開なのかというとそうではない。そこで、ヴァランダーのキャラクターが生きてくるのである。時に全く無関係の通行人の視点もはさみながら、ダイ・ハードよろしくの危機的展開に手に汗握りつつ、ヴァランダーがある女性へ寄せる思いの切なさにほろりとさせられてしまったりする。そして、「笑う男」のラストには本当に落涙してしまった。ミステリで涙したのは、これが初めてである。